アトム、ガンダムといったロボットアニメがあり、さらに動物型、二足歩行型など
さまざまなロボットが日々開発されている日本。日本人のロボット好きは世界的にも有名だ。
杉浦機械設計事務所の杉浦社長もロボットにとりつかれた1人だが、
杉浦社長のロボットづくりはある1つの思想が貫かれている。
そしてそれは、画期的なある商品へと結びついていく。
杉浦社長はロボットに何を見て何を感じているのか。
「私は──」
杉浦社長が語り出す。
“ロボットの杉浦”の起点となった「ダイナマイザー」
冬。住宅街の道路にうっすらと雪が積もる。犬がかけまわっている。その道路の真ん中でスキーをするものが見える。人ではない。人型ロボットだ。高さ30cmほどの青いロボット。それがスキー板を足につけさっそうと雪の坂道を滑走する。
家の庭でバーベキュー。木製のテーブルの上に七輪が置かれ、鮎のような魚が焼かれている。先の青いロボットが手にウチワを持ち器用に魚をひっくり返す。ウチワの仰ぎ方は手馴れたものだ。
池だろうか。のどかな昼下がり。時間がゆったりと流れる。桟橋で釣りをする人が2台のロボット。折りたたみ式の椅子にちょこんと腰をかけ、竿をしっかりと握り糸をたらす。一度糸を出し、腕を振り下げて入れ直した瞬間、勢いあまって池にポチャンと落ちてしまう──。
ロボットの名は『Dinamizer(ダイナマイザー)』。上は、開発した会社のホームページで動画によって紹介されているダイナマイザーの様子だ。会社の名は杉浦機械設計事務所。ロボットの開発者はその会社の社長、杉浦富夫である。
ダイナマイザーは、大手鉄鋼メーカーの大型案件をいくつも請けるなど会社を軌道に乗せていた杉浦社長が、“ロボットの杉浦”として名を馳せる起点となった。
なぜロボットにこだわり、次々と人間と同じ行為をさせるのか。
物心ついたときから「大の機械好き」
油の匂いの中で育った。
1969年、父親が建設機械などをつくる会社を退職し旋盤1台で「杉浦製作所」を立ち上げる。DNAのなせるわざか、杉浦社長は子どもの頃から「大の機械好き」。物心つく頃から掃除機、トースターなどを次々と分解。それだけでは気が済まず、ブリキのおもちゃを改造して密かに性能を上げたりしていた。青年期になるとバイク、自動車の改造に移行する。
夏休みや冬休みになると、父親の仕事仲間であるフライス、研磨、3次元加工などの工場に丁稚奉公に出された。
父親は旋盤職人。もらった図面を見てものをつくる側。杉浦社長はおりてくる図面に興味をもった。見よう見まねで図面を描くようになり、学校に進み専門的に勉強。就職することなくすぐにフリーランスとして活動する。卒業するときには機械設計の腕はすでに「プロ」のレベルに達していた。1980年のことだ。
産業用ロボットなど、製造業向けの機械設計を手がけていたが、数年もすると大企業からも依頼が舞い込んでくる。蒸気タービンである。9年目に法人化し、その後も風力発電の大型風車の設計に数多く携わり、これまでに手がけた風車は100機以上。大企業からも頼りになる男だった。
「社員にならないかと何回も言われました。たまたま仕事が切れなかったので就職しないできています」
機械設計の世界に身を置いて四半世紀近く。多くの機械に出会い、その都度工夫をこらし設計してきた。そんなある日、杉浦社長はふとひらめく。
「ロボットをやろう!」
好成績とファミリーで一躍有名に
当時、『ROBO-ONE』という二足歩行ロボット同士が戦って競い合う大会が始まったばかりだった。
「そもそも自分は産業用ロボットをつくっていた。二足歩行ロボットなら自分の実力が発揮できるはずだ。趣味と実益を兼ねてまずは研究から始めよう」
自分の実力。この言葉には「経験」「設計力」のほかに、もう1つ意味が込められている。『RP(ラピッドプロトタイピング)』の先駆者である、ということだ。
杉浦社長はCADの黎明期から2D CADを使い始め、1996年には当時ほとんど普及していなかった3D CADを使うようになり、その頃に1台40万円もするRP切削機も購入する。そのため二足歩行ロボットも、設計だけでなく製造までできてしまう。その強みが活かせると考えたのだ。
そして、2003年に完成したロボットが冒頭で紹介した『ダイナマイザー』である。初出場のROBO-ONEでいきなりベスト16の好成績。その後の大会でも準優勝を飾るなど一躍その世界で有名になるが、有名になったのはもう1つ理由がある。杉浦社長には3人の子息がいるが、全員ロボットの世界に一緒になって入り込み「杉浦ファミリー」を結成。ダイナマイザーのテーマソング「ゆくぞダイナマイザーの歌」までつくる。これがウケたのだ。
ほかのチームにはないユニークな取り組み。それは、杉浦社長の“ロボット観”から来るものだった。
ヒューマンなロボットからひらめいた新アイデア
「私のマインドにあるのは、ロボットにいかに『いとおしさ』を感じてもらうかなんです」
小さい頃見たアニメの数々。アトム、マジンガーZ、ロボコン、ジャイアントロボ──。杉浦社長が愛してやまないのがヒューマンなロボットだ。
「アトムはちょっと優等生すぎる感じですね。ジャイアントロボはずっとリモコンで動いていたのに最後に人の言うことをきかないでミサイルをもって宇宙で爆発するでしょ。ああいう物哀しさを感じさせるところがいいなと思うんですよね」
とにかくロボットに無茶をさせる。サッカーや野球をやらせたり、ジョウロを持たせて花に水をあげさせ、うどんをこねさせたり、スライサーでキュウリを一心不乱に切らせたり、はたまた芝刈り機を手にのんびり芝を刈らせたり。ロボットに人と同じことをさせると不思議な愛らしさが生まれると知っているからだ。
「ROBO-ONEのバトル部門は何度出ても準優勝止まりなんですが、負けっぷりがいいといわれます。子どもたちはすごい悔しがっていましたが、私はそれでいいと思っていました」
ダイナマイザーを開発してから8年経った2010年。神奈川県で『ロボット等新製品開拓事業業務委託研究』という研究が公募されているのを知る。
ヒューマンなロボットをつくりたい──。
杉浦社長がまたひらめく。
「しぐさ」を取り入れ躍動感のあるトルソを
「ロボット大国というけど、人と接触するところにロボットは少ない。私はポージングができる新しいロボットを開発します」
杉浦社長はそう一筆書いて応募する。結果は合格。新たなロボット開発が始まる。目ざしたのは「動くトルソ(胴体部のみのマネキン)」だった。
「マネキンって動きがなくて無機的。そこに『しぐさ』を入れれば躍動感が生まれ、私の目ざすヒューマンなロボットができるのではと思ったんです」
3ヶ月の開発期間を経て完成。だが不満があった。腕は既存のマネキンのものを使ったが、腕が重く肩のモーターが何度も止まる。改良の必要性を感じ次年度に再度応募したところ再び採用される。
動くトルソ君は人々の心をキャッチし、TV出演や新聞に取り上げられるなど、露出度を上げていった。あるとき、著名な空間コーディネーターのtasu瀬谷ゆみこ氏からコンタクトがあった。その展示期間は34日間、場所は池袋パルコというビッグな話であった。「ビジネス」となるとモーターが途中で止まってしまうわけにはいかない。
「どうすれば軽くできるのか」
軽くする場合、FRP(繊維強化プラスチック)レイアップが考えられるが、製作コストと納期から断念。そこで杉浦社長が注目したのが、MSYSオンデマンド生産サービスだった。強度のあるポリカーボネートが使え、サポート材を溶解して取り除けるため、中を中空構造にすることができ、より軽くできる。
1つの下腕でマネキン改造版より130gも軽くでき、頻繁に止まっていた肩のモーターも止まることがなくなり、動きも人の動きに近づいた。
パル子ちゃんの未来
池袋パルコ。
カラフルな風船が並べられたショーウインドウのなかに、杉浦社長の自信作が立っている。顔や足をつけてマネキン型にし、「パル子ちゃん」と名づけられた。
1時間のうち3回、1回につき5分程度「しぐさ」がタイマー制御によって自動運転される。動かなかったパル子ちゃんがスーッと動くと、目の前の女子高生が思わず叫ぶ。
「見て見てあれ、動いてるよ!」
ダイナマイザーは、ROBO-ONEの負けっぷりが評判となり、韓国のロボットの科学館で試合の様子がエンドレスで流れているという。また、Facebookの反応も海外からのものが多いそうだ。
杉浦社長が目ざすヒューマンなロボット。
日本で、そして世界で人の心をとらえつつある。
池袋パルコのショーウインドウ
池袋パルコのショーウインドウに登場したマネキン「パル子ちゃん」。腕が軽くなったことで動きもスムーズになった。
腕つきトルソ君シリーズの技術は神奈川県発明協会のご指導の下、特許出願中です。
クライアント:パルコ
ディレクション:パルコスペースシステムズ
櫻井 暁恵
デザイン:tasu 瀬谷 ゆみこ
撮影:中村 治