世の中には、失敗が決して許されないものがある。
大阪市都島区にある大阪市立総合医療センター。ここに、非常に高度な手術に日々臨んでいる医師がいる。
今井啓介医師と坂原大亮医師だ。
診療科は形成外科。それも、生まれて間もない子どもを診る「小児形成外科」である。
その手術ができる施設は全国でも限られており、大阪だけでなく、京都、奈良、兵庫、三重など、近畿圏を中心に多くの患者が集まってくる駆け込み寺的な病院だ。
目の前の小さな命。
失敗できない手術に全力を尽くす2人の医師を追った。
数万人に1人の割合で発症する頭蓋縫合早期癒合症
人口約883万人の大阪府。 これだけの人を支えるために、大阪には病床数が1,000以上の病院がいくつかある。なかでも、大阪市立総合医療センターは1,063床を擁し、大阪を代表する病院の1つだ。
「当センターは、大阪市制100周年の記念事業の一環として1993年に設立された病院です。大阪市立母子センター、大阪市立小児保健センターなどの5つの病院が統合され、大規模かつ高度な医療を提供する病院へと生まれ変わりました」(今井医師)
診療科は57(標榜科は24)もあり、「地域がん診療連携拠点病院」や「総合周産期母子医療センター」に指定されている。さらに前身の一つが大阪市立小児保健センターだったことから小児医療に強く、17の小児系診療科からなる「小児医療センター」が設置されているほか、全国に15ヶ所しかない「小児がん拠点病院」にも指定されている。大阪だけでなく、近畿圏を代表する病院といえる。
そのなかで、「小児形成外科」を担当しているのが今井医師と坂原医師だ。
「小児形成外科はその名の通り、形成外科でも小児を専門とする診療科です。スタッフは研修医を含めて8人います」(今井医師)
そのなかで、大阪市立総合医療センターの小児形成外科は頭蓋縫合早期癒合症の治療が有名で、近畿圏のほか中四国からも患者がやってくる。
「人の頭の骨は、前頭骨、後頭骨、頭頂骨(左右)、側頭骨(左右)と6枚に大きく分かれていて、それらをつなぐ部分を縫合線といいます。生まれたときは縫合線に隙間が空いていて、隙間があることで頭蓋骨は大きくなり、脳が大きくなるにつれて縫合線の隙間もなくなっていきます。ところが、生まれつき縫合線に隙間がないと、脳は大きくなるのに頭蓋骨が大きくならないので脳に圧がかかり、頭の形も縦長や横長などになってしまいます。それが頭蓋縫合早期癒合症です」(今井医師)
頭蓋縫合早期癒合症は数万人に1人の割合で発症するとされている。大阪市立総合医療センターでは、頭部だけでなく顔面の手術も入れると、年20~30件ほどの頭蓋縫合早期癒合症の手術を行っている。手術数の絶対数は多くないが、他施設と比較すると本症例における手術数は非常に多いという。
「頭蓋縫合早期癒合症には、遺伝子などの原因がわかっている『症候群』のものがありますが、それ以外ははっきりとした原因がわかっていません。そのため、基本的には対処療法となり、手術を行うことになります。ちなみに顔面は小児形成外科で行いますが、頭部の手術は脳神経外科の医師が担当します」(今井医師)
脳は3歳までに大人の9割くらいまで成長すること、さらに、脳の障害は一度悪くなると治らない不可逆性があることから、同センターではできるだけ早く処置を行ったほうがよいと考え、生後6ヶ月以内に手術を行うようにしている。だが、問題は手術が容易ではないことだった。
今井医師は言う。
「12時間に及ぶこともありました。」
手術に欠かせない術前シミュレーション
「頭蓋縫合早期癒合症の手術は、頭蓋骨に手を加えて竹細工のように骨を組み直して容積を大きくする手術が行われます。また、骨を延長させる手術もあり、骨延長器という機械を使って骨に隙間をつくり、1日に0.5~1ミリずつ骨を移動させ、隙間に骨組織を再生させるという手術もあります。ただ、頭部は非常にデリケートな場所で、さらに頭蓋骨の形や大きさは人によって異なります。そのため手術に欠かせないものがありました。シミュレーションです。頭蓋と顔面の手術は昔から術前のシミュレーションが大事といわれ、そこで正確なシミュレーションができるかどうかが成功の大きな鍵になるのです」(今井医師)
今井医師が形成外科医になったのは1980年代後半。当時は、患者の頭部のCT画像を自分の頭の中で縦に重ねて形をイメージし、それをベースにスポンジや石膏、粘土を用いて手作りで患者の頭部モデルを製作。それを見て、どこをどう切ってつなぎ合わせればよいかをシミュレーションしていた。
ただ、形が精巧でないことから、シミュレーションを高いレベルで行うことができず、手術は昼間から始めると深夜までかかることも多かったという。
「私は大阪医科大学にいたのですが、担当教授がモデル造形にとても熱心でした。シミュレーション用のモデル造形の重要性を以前から語っており、1991年、デモ機としてドイツのキール大学で開発された切削型のモデル造形機を導入しました。材料はポリウレタン樹脂で、それを野球のバットをつくるのと同じように削っていきます。バットと違うのは5軸で削れることで、自分でつくるのと違って非常に精巧な形ができるようになりました。1993年に私がここに赴任すると同時に、同じモデル造形機を入れてもらい、これにより頭蓋縫合早期癒合症の手術現場は大きく変わりました」
モデルの形が精巧になったことで、モデルを実際に切って組み合わせてうまくいけば、手術はそのモデル通りに切るだけでよくなり、シミュレーションの重要性がより一層増した。これにより、以前12時間かかることもあった手術時間は半分近くにまで減り、出血量も大きく減る。
ところが2003年、そのモデル造形機の代理店が日本から撤退。サポートを受けられなくなり、ほかのモデル造形機を探さざるをえなくなった。当時、市場に出回っていたのは光造形と石膏の3Dプリンター。光造形は造形に技術が必要なこと、材料費が高額だったことから諦め、価格の安かった石膏の3Dプリンターで造形するようになった。
「石膏は良くも悪くも材料がやわらかいのが最大の特徴です。やわらかいので造形したモデルを切りやすいメリットがある反面、もろく壊れやすいので注意深く扱う必要がありました」(今井医師)
そして、石膏の3Dプリンターを使っているなかで、ある問題に直面する。3Dプリンターの使用環境が、石膏の粉塵で悪化したことだ。当時、アスベストの粉じんの問題がクローズアップされていた時期で、医学的に問題がないとしても、使う人に不快感を与えるものを解消したいという思いがずっとあった。
2017年、今井医師はある決断をする。
造形モデルを手術室に持ち込めるメリット
2017年2月、今井医師らはストラタシス社の3Dプリンター「FORTUS380mc」の導入に踏み切る。
「以前は石膏で粉まみれになっていたので、人に不快感を与えないものをということでABS樹脂がいいだろうということになりました。石膏と違って強度もあるので、落としても壊れないというメリットも判断材料になりました」(坂原医師)
また、ABS樹脂には骨に近いしなりがあることも重要だったという。
「初代の造形機はポリウレタン樹脂で、代理店にお願いして骨に近いしなりを実現してもらっていました。石膏はしなりがないので、シミュレーションを行ってももの足りませんでした。ABS樹脂はポリウレタン樹脂と同じような骨に近いしなりがあり、シミュレーションがやりやすくなりました」(今井医師)
そして、坂原医師が「予想外だった」と語るものがある。
「ABS樹脂が以前の石膏と決定的に違う点があります。それは、滅菌すれば造形モデルを手術室に持ち込めることです。手術中は頭蓋骨がすべて見えているわけではなく、部分的に見える状態です。そのため、形を探っているところがあり、そのときに造形モデルを手で触れることで、実際の頭蓋骨の形が把握できるので、手術がスムーズに進みやすくなりました。これは大きなメリットでした」(坂原医師)
高度なシミュレーションで限りなく100%に近づく
シミュレーションが欠かせない頭蓋縫合早期癒合症の手術。
小児形成外科では、さらに正確なシミュレーションができるように、すでにシミュレーションソフトも導入している。
「まだテスト段階ですが、シミュレーションソフトを使って、何パターンかカットするラインをつくってそれを元に議論を重ねています。理想は、シミュレーションソフトで最適と思われるカットラインを導き出し、そのうえで3Dプリンターで造形したモデルをカットして検証できればよりスムーズに進められると思っています」(坂原医師)
今井医師は技術伝承の重要性を説く。
「頭蓋縫合早期癒合症はそもそも絶対数が多くなく、少子化で子どもの数も減っており、技術の伝承が年々難しくなってきています。シミュレーションソフトでテンプレートのようなものをつくり、ARやVRの技術と組み合わせることで、遠隔地でも操作できるようになることができれば技術を伝承できるかもしれません。また、それによって新しいアイデアが生まれてくれば、技術の進歩にもつながると思います」
坂原医師は客観的なデータを蓄積していきたいと抱負を語る。
「これまでは経験値というものが非常に大きなウエイトを占めていました。もちろんそれも重要なのですが、シミュレーションソフトをうまく使うことで、手術が成功したときの客観的なデータが蓄積できれば、こういう場合はどの値でカットしてつなげればいいという指標値ができるかもしれません。3Dプリンターで造形して実際の形で検証を重ねながら、より完璧に近い手術を行いたいと思っています。
手術の精度を限りなく100%に近づけようとしている、大阪市立総合医療センターの小児形成外科。
シミュレーションのさらなる進化が、その鍵を握っている。