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医師の叡智を産業、地域に生かす。「医学を基礎とするまちづくり」始動!

「医師がもつ知見をもっと社会に役立てることはできないだろうか──」そう考える人物が奈良県にいる。奈良県立医科大学の細井裕司理事長である。「医師はずっと目の前の患者さんばかりを診てきました。それはもちろん正しいことなのですが、医師の役割はそれだけだろうか、という思いがありました」細井理事長はその思いを実現すべく、あるものを立ち上げる。MBT。「Medicine-Based Town」。細井理事長の造語だ。これからの医師はどうあるべきなのか。細井理事長の挑みを追った。

会場にあふれる人、人、人

驚くべき光景が広がっていた。ここは奈良県橿原市。初代天皇として有名な神武天皇陵、その南側に位置するのが橿原神宮である。併設する橿原神宮会館内に用意された500席は満席に埋まり、入れなかった人たちがエントランスホールにあふれ出ている。エントランスホールには大型モニターと椅子が用意され、あふれた約130名の人たちがホール内の様子をモニター越しに食い入るように見入っている。これは、2016年1月21日に開催された「MBTコンソーシアム研究会設立記念シンポジウム」の様子だ。全国の企業、団体から293社、536名がここに集結し、奈良県立医科大学からの参加者を含めて632名が列席したのは史上初だという。真冬だというのに会場は大変な熱気に包まれた。

第2部では、奈良県立医科大学のほぼすべての部門からの69名の教授(一部代理を含む)と企業との相談会が開かれ、338名もの人たちが医師と懇談。参加した企業のなかには家電メーカーやIT系企業なども多く含まれ、今までに見たこともない光景が繰り広げられていた。

「開始前には、近くの駅から会場まで多くの人が列をなし、地元でも『いったい何が起こるのだろう?』と話題になっていたそうです」細井理事長がこのシンポジウムの仕掛け人である。

MBT。Medicine-Based Town。訳すと「医学を基礎とするまちづくり」。MBTとは何なのか。「きっかけは11年も前になります」

一つの発見から始まった

「私は耳鼻科医として大学の教授になり、2004年に軟骨伝導を発見しました。これまでの教科書には音が耳へ伝わる方法は2ルート存在する、とされていました。一つは外耳道で、いわゆる耳の穴です。もう一つのルートは骨伝導と言って振動が頭蓋骨を伝って聴覚神経へと伝わります。そして軟骨伝導の発見により、新たな第3のルートの存在が明らかになりました。」

外耳道の軟骨部分に振動が伝わると、外耳道内の空気が音を生み鼓膜に伝わる。これが軟骨伝導だ。耳の穴の近くの軟骨を手で触ってみるとザワザワと大きな音が入ってくるのがわかる。電話の受話器を耳に押し当てると大きく聞こえるのも、軟骨伝導現象が関与しているという。

「私はこの発見を工学に活かせないかと考えました。例えばCTやMRIのように、工学が医学に貢献する例は数多く見受けられます。ところが、医学が工学に貢献するといったことはあまり聞きません。そこで、MBE(Medicine-Based Engineering)、すなわち「医学を基礎とした工学」というコンセプトを打ち出し、医学の叡智を産業に活かしていきたいと考えたのです」

この思いは一つの製品として実を結ぶ。補聴器メーカーと共同で軟骨伝導補聴器を開発した。外耳道閉鎖症といって耳の穴がない人は一般的な補聴器を使うことができないが、軟骨伝導補聴器であれば軟骨を通じて楽に音を届けることが可能となる。これまで圧迫感や痛みを伴うこともある骨伝導補聴器に頼るしかなかった人たちに福音をもたらす新たな発明だ。細井理事長はさらに動く。一般の健常者向けの新製品開発だ。軟骨伝導は、騒音があってもとても聞きやすく、音漏れもなく周りに迷惑をかけない。こうした特長を活かした製品化を模索、軟骨伝導イヤホンと軟骨伝導携帯電話の試作を行った。

「メーカーの人たちは確たる医学的根拠もなく製品開発に取り組むことに対して、長い間違和感をもっていたのではないでしょうか。医者の協力があれば、確かな効果が期待できる上、消費者からの信頼も大きい。マーケットサイズが大きい一般消費者向けの商品であれば、新たな産業の創生につながることもあるでしょう」細井理事長は、この発想をさらに応用する。

MBTでさらにMBEを促進

2006年4月、ハウスメーカーと組み、奈良県立医科大学で「住居医学」講座がスタートする。住まいにおける健康を、医学的見地から検証するというものだ。

「人が一生で最も長くつき合うものの一つが住居です。健康的な住まいという概念はあっても、医学的見地から検証、考察されてはいません。そこで医学的根拠に基づいた住居を考えようと開設されたのが『住居医学』の講座です」

住環境が循環器系や脳血管系、睡眠に及ぼす影響、微生物やアレルギー分析、光や温度、振動や音と健康の関係など、さまざまなテーマの研究が6年にわたって続けられた。そして、この流れのなかで生まれたのがMBT、医学を基礎とするまちづくりだった。

「MBTの拠点となるのは奈良県立医科大学です。2021年に大学の一部が今の場所から1kmほど離れた場所に移転するのですが、移転によって現在使っている施設に空きができます。それを活用してMBTの活動拠点とし、周辺地域全体で医学を基礎とするまちづくりを進めていきます」

MBTには大きく二つの目的がある。一つは『産業の創生』。先に紹介したMBEである。その実現のために産業創生分科会をつくることを計画している。医師、研究者、看護師、企業で一つの会をつくり、そこで企業が出す新製品のアイデアについて、大学側が医学的見地からサポートしていくという流れだ。一人の医師ではなく医科大学全体として取り組むメリットは、さまざまな分野の医師や研究者から知見を得られることである。

「例えば、高齢者の見守りシステムをつくっている会社があるとします。高齢者用の通報ボタンを開発する場合、ボタンの色は何色がいいのでしょうか。高齢者には白内障の人も多く、何色が見えやすいのかを常識だけで判断すると見誤ってしまう。こうしたときに医師が参画してアドバイスを与えることで、医学的に正しい製品が生まれます。その技術やノウハウを特許にすれば、独占的なビジネスも可能です。逆に医学的根拠がない他の製品は消えていくしかなくなるでしょう。医学的根拠があるということは、それくらい大きなインパクトがあることなのです」

新製品が完成した暁には、その技術ノウハウに基づき医師が英語で書いた論文を世界的に名のある雑誌に掲載する。これが叶えば世界的に認められたことになり、広報の側面でも貢献できる。

そして、MBTのもう一つの大きな目的が、「少子高齢社会を快適にするモデルの構築」だ。

個々人に価値ある情報提供も視野に

「高齢化が進むなかで大きな問題は高齢者の健康維持です。病気になってから病院に来るという従来の流れではなく、病気になる前に予防することや、病気が重くなる前に小さな芽を察知し、すぐに病院に連れて行くような高齢者を見守るシステムを考えています」

細井理事長のイメージはこうだ。温度、湿度、照度などの環境データや循環器、呼吸器など体についてのデータをセンサーで収集する。ICT技術により奈良医大とネットワークで結び、問題がある場合にかけつけたりするというものだ。センサーによって異常を感知したり、病態を把握することによって見守りを行う。

「こうした機器による見守りのほかに、人による見守りも導入したいと思っています。医師、看護師、薬剤師、介護士など医療関係者のほかに、郵便配達や宅配便の人たちにも参加していただきたいと思っています。医療関係者でなくても、顔色を見たり手を握ったりすることにより有用な情報を取得することができます。機器と人が収集する2つの情報をうまく処理して選別し、最終的に医師に届けるような形にできないかと思っています」実際に、機器による見守りの実験を計画している。

奈良県立医科大学から歩いて10分もかからない場所に、江戸時代の環濠集落として有名な今井町がある。町の活性化にモデル事業を行う予定である。すでに基礎的な研究に着手しており、体温、血圧などのバイタル情報のほかに、室外の温度や湿度のデータも集めて、個々人にとって価値ある情報を提供しようとしている。データを収集してすでに1年が経っているが、身体に与える気圧の影響が少しずつ見え始めている。気圧の影響を受けるといわれる喘息、リウマチ、頭痛などの持病をもつ人たちに、「明日のリスク値は何%」といった情報を提供できるようになる可能性があるという。

丸紅情報システムズが提供するMBT向け見守りシステム

丸紅情報システムズのBeaconに温湿度センサーや照度センサーが取得するデータを集約し、クラウドのアプリケーションサーバーヘ送信。遠隔地から高齢者のみまもりを実現します。

MBT奈良みまもりシステム全体のイメージ
MBT奈良みまもりシステム ウェブ管理画面イメージ

目指せ「奈良モデル」の構築

「MBTコンソーシアム研究会設立記念シンポジウム」の開催によっていよいよスタートラインに立ったMBT。今後どのような展開を考えているのだろうか。

「まず大事なのは、『奈良モデル』といわれるくらいの確かなモデルを創り出すことです。そして、そのモデルを全国に展開できれば理想的です。地域によって多少差はあるものの、医科大学と附属病院のもつ機能はそう大きく変わりません。多くの診療科が揃っていて最新の設備も揃っている。そうしたところで使える共通のモデルをまず構築したいと思います」

奈良県立医科大学の中期計画には、「まちづくり」の項目がある。「学生の多くは、目の前の患者さんを治そうと思って入学してくると思います。しかしこれからは『医療はまちづくりの基礎』という気概も大切です。医師が貢献できる分野はまだまだあるはずです」

医師を中心に、企業、住民、自治体、国を巻き込む壮大なプロジェクトがいま始まった。

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