2001年に米国が国家戦略として研究目的にするなど、21世紀に入ってからナノテクノロジーは、最先端技術として世界中で研究が活発に行われている。数年後には、ナノテクノロジーを活用した次世代型の一般家電が市場に流通すると予想されている。そんな期待が高まる中、ナノ技術の研究を進める企業の1つ、東芝機械が2009年、世界に例を見ないナノインプリント装置を開発した。
より小さくより安く――
日々進化するデジタル機器
パーソナルコンピュータやDVDレコーダー、カーナビゲーションなど、我々が毎日のように触れる多くの精密機械に搭載されているハードディスクドライブ。大容量データ記憶装置として、生活上で欠かすことのできない身近な存在である。
そんなハードディスクドライブは、誕生してから50年以上の歴史を持つ。世界初のハードディスクドライブは、1956年に米国IBMによって製作された、24インチ(約61センチメートル)のディスクを50枚も連結させた巨大な装置。しかし、記憶容量は5MB(メガバイト)というとても小さいものだった。それが半世紀の時を経て、現在では、10万倍の容量にあたる500GB(ギガバイト)の容量を誇るハードディスクドライブを搭載したDVDレコーダーが市販されるまでに技術が進んでいる。
デジタル機器は、日々進化を遂げている。より高性能に、よりコンパクトに、そしてよりローコストに。これら市場のニーズは、機器だけでなく、もちろんハードディスクドライブのような構成部品にも当てはめられる。いくら性能が良くてもコストがかかってしまえば、量産品としては認められない。現在、ハードディスクドライブの大容量化は頭打ちが懸念されている。現状の量産方式では、もはや限界に近いのではないかと見られており、新技術による次世代型のハードディスクドライブの出現を業界は待ち望んでいる。しかし、現実は厳しい。一説によると、1つの商品において、新しいハードディスクドライブにかけることができるプラスアルファのコストは、たとえ新技術が生かされていたとしても、たった1ドルしか許されないと言われているのだ。
そんな、1ドルの限界にチャレンジする企業が、静岡県沼津市にある。勇壮な富士山を眺めることができる場所に本社工場を構える東芝機械。同社は、ナノテクノロジーを利用した独自のナノインプリント技術で、ディスクリートタイプのハードディスク基板(ディスクリートトラックメディア:DTM)を作る「DTM-HDD 専用ナノインプリント装置」を開発し、業界から注目を集めている。
「DTM-HDD 専用ナノインプリント装置」は、現在のところ、ディスクリートピッチが100ナノ以下(溝幅はその半分)でインプリントを可能とし、600Gbit/平方インチ容量のハードディスクを製作できます。ディスク両面に対して同時にインプリント可能で、生産時間の短縮が図れることが特長です。インプリント方法は、コールドインプリント(室温インプリント)方法を採用しています。
総合機械メーカーだからできたナノテクノロジーへの挑戦
総合機械メーカーである東芝機械では、2002年より毎年1回、「東芝機械グループソリューションフェア」と題したプライベートフェアを本社工場で開催し、グループの技術紹介や、新しい研究・開発成果を発表している。ここで展示されている商品やシステムは実に幅広い。世界最大級の射出生成機や押出生成機から、印刷機械や精密加工機などの繊細な商品までを展示しバラエティーに富んでいる。同フェアを見学に訪れる人は、大手企業の役員クラスから現場の熟練工までさまざまである。驚くのは同社のライバル企業の関係者も多く招き入れているところだ。自社の技術をさらけ出すことに問題はないのか? この問いに対し、同フェアの運営委員の1人である冨田佳一部長は、「自社という小さな枠でとどまることなく、広く業界で技術シェアができれば良いというのがわが社の方針です」と語る。
同フェアは4日間で、約4千2百人もの来場者数を集める盛況ぶりだった。そんな中で、多く来場者の興味を引いていたのが、「nano labo(ナノ・ラボ)」と名づけられた建屋の一角に設置された「DTM‐HDD 専用ナノインプリント装置」である。高さ2.3×縦2.7×横3.0メートルのクリーンブースの中で、積み上げられたハードディスクドライブの基盤となる2.5インチの円盤を、センターにあるロボットアームが素早く右へ左へと置き換えていく。ナノテクノロジーとは、ナノ単位の精度でモノを製造していく技術のことだ。ナノとは、0.000000001メートルで、百万分の一ミリメートルに当たる。
東芝機械は創業約70年。大型の工作機械を中心として、日本の産業界を牽引してきた名門企業だ。その同社が、新しい領域としてナノテクノロジーという、サイズ違いのジャンルへ挑戦した背景には、必然的な流れがあったという。
「市場では将来のアプリケーション創出に向け、多機能化、高集積化、ウエアラブル化が求められ、型を作るにしても成形物にしても、小さいものを扱うことが多くなってきていました。微細なものを作れるようになると、会社としての成形技術も飛躍的に伸びるのではないかと10年位前から考えていました。そんな時、ナノインプリント技術があることを知ったのです。また、この新技術をビジネスツールとして成功させ、世の中に認知させる力が、わが社の既存技術を持ってすれば可能であると感じたのです」(冨田氏)
熱やUVを使わずに両面を同時にプリントする他にはない画期的な方式
「DTM-HDD 専用ナノインプリント装置」は、DTMをプラッタに使用してハードディスクを作る。この方式による製品の実用化はまだされておらず、数年後の量産化に向けて各メーカーが開発に力を注いでいる段階だ。現在のハードディスクドライブは、垂直磁気記録方式と呼ばれる仕組みで形成されている。
そもそもハードディスクドライブは、ディスクの表面に磁石を並べ、磁気ヘッドで磁界を加えて磁石の向きを変えることで「0」と「1」のデジタルデータを記録していく。現在、主流となっている垂直磁気記録方式では、それぞれの磁石のN極とS極はディスク面に対して縦方向に並べられている。この方法では、磁石同士が接しているため、相互干渉してしまいノイズが発生する恐れがある。ノイズが起こると記録機能に障害が出てしまう。また、記憶容量を増やすために磁石のサイズを小さくしていくと、外部の熱エネルギーの影響を受けて磁性軸を一方向に保つことができなくなる熱揺らぎという現象を起こしてしまう問題がある。そのため、この方法では記憶容量に限界があるのではないかとされているのだ。
さて一方、DTM方式では、磁石と磁石の間に溝を設ける。こうすることで、磁石同士の相互干渉を低減し、記録精度を上げることができる。また、熱揺らぎは溝という熱の逃げ道があるため発生を抑えることができるのだ。また、1つの磁石のサイズを従来に比べ小さくすることができるため、数多くの磁石をディスク面に置くことが可能で記録容量も増大する。
「DTM-HDD 専用ナノインプリント装置」では、現在のところ、ディスクリートピッチが100ナノ以下(溝幅はその半分)でインプリントすることが可能で、600Gbit/平方インチ容量のハードディスクを製作できるという。「DTM-HDD 専用ナノインプリント装置」が他社の方式と大きく異なる点は2つあると、同装置の開発を担当した小久保光典氏は説明する。
「この装置は、ディスク両面に対して同時にインプリントすることができ、生産時間の短縮が図れることが特長です。インプリント方法は従来からあるUV転写や熱転写ではなく、コールドインプリント(室温インプリント)方法を採用しています。UV方式だと光を当てる必要があるため、構造部品を光透過性のあるものにしなければならず、両面同時インプリントができる構造とするのは非常に困難です。また、熱を使用すると物体が膨張します。部品の種類が多いので、熱によって変位する量と方向を予測することが難しく、結果としてインプリント精度が落ちる危険性があります。これらに対してコールドインプリントは常温でインプリントできるので、熱の影響によって精度が落ちるという問題を避けることができます」
この装置は現在、1時間で2.5インチのハードディスク基板の両面を120枚インプリントできる。小久保氏は今後、3倍にあたる360枚生産できるようにし、容量に関しても1Tbit/平方インチに到達するように開発を進めたいと語る。冨田氏は同装置のレベルアップについて次のような意見を持っている。
「装置のレベルを目標値まで進めれば、多くの関係者がナノインプリント商品に対して興味を示すでしょう。1時間当たりの生産枚数がアップすれば『1ドルのコスト』の壁も突破できると想定しています」
業界内で技術シェアをして日本発のナノインプリント製品を
東芝機械では、「DTM-HDD 専用ナノインプリント装置」を売り出すのが最終目的ではない。それはあくまで通過点に過ぎないと冨田氏は説明する。
「ハードディスクはナノテクノロジーを用いた商品を世間に認知してもらうためのトリガーであると位置づけています。この技術が次世代型の商品作りに有益であるということが、一日も早く証明されることが最も大切だと考えているのです」
例えば、携帯電話の発信機に用いるSAWデバイスや、LEDにもナノテクノロジーは有効ではないかと期待されている。しかし、前例のない技術を用いるにはリスクがあるため量産化というレベルまで話が進まない。そんな状況を打破するためにも、まずはナノテクノロジーが有用であるという実績を作りたいと考えているという。同社では「DTM-HDD 専用ナノインプリント装置」を開発する以前に、多機能型で汎用性の高いST50という微細転写装置を製作した。この装置でさまざまな実験を繰り返した。
「実験の過程で、これまでにわが社が培ってきた技術が活かされたのです。サイズは違いますが、ナノテクノロジーでもプレスする技術やフィルムを高速で動かす技術、薄い樹脂を塗る技術などが必要となります。これらは、ナノ単位でもメートル単位でも根本は同じです。だからこそ、わが社にはナノテクノロジーを実用化させるポテンシャルがあるのではないかと感じたのです」(冨田氏)
そして、実験を重ねた結果、ナノインプリント実用化の第一号として注目したのがハードディスクであり、「DTM-HDD 専用ナノインプリント装置」の開発へと発展していったのだ。
ハードディスクをナノインプリント方式で作ろうとしているメーカーは、他にもある。現在も、苛烈な開発競争が繰り広げられている。しかし、小久保氏は「今は他社と争っている場合ではない。それよりも、ナノインプリントが世の中に認知され、本手法がデバイスを生産する工程に採用される実績をつくることが重要です。そのためには、業界内での技術シェアが大切なのです」と語る。ソリューションフェアでは、自社の最新技術である「DTM-HDD 専用ナノインプリント装置」の全容を惜しげもなく、見学者に説明していた。
新しいものを認知してもらうには、それ相応のインパクトが必要だ。テクノロジーとコストの両輪が揃って初めて量産化を実現し、マーケットを切り開くことができる。市場の厳しい要求をクリアし、ナノインプリント商品の実現と定着に向けて、東芝機械ではこの新技術の開発を続けている。